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フクロウの声はどう聞こえるか

2017年9月6日(水) 小沢健二 と SEKAI NO OWARI 「フクロウの声が聞こえる」がリリースされた。

前のシングルである「ある光」のリリースが1997年12月で、「流動体について」(2017年2月)まで19年待った(とはいってもその間に2枚のスタジオアルバムと1枚のライブアルバム、謎の映画と3回のコンサート・ツアーがあったわけで少なくともファンにとっては定期的に「手紙」は届いていたわけだけど)ことを考えると、たった7か月で2枚目のシングルが届くとは、、、というオドロキである。

魔法的ツアーの中で、「新曲」として披露された順番でいうと今回の2曲、「フクロウの声が聞こえる」と「シナモン(都市と家庭)」は初めの2曲でもあった。
ギアをあげた「昨日と今日」でスタートしたバンドセットの初めの刺客。

当時の感想を僕はこう書いていた

>>
2,3曲目に披露した曲は、歌詞は言うなればいちごが染まる系の復活後の系統なのかな。
童話のような、幼きものに話しかけるような、アメリカの絵本のような歌詞とソウルマナーの曲。この子どもたちに話しかけるような、小説を紡ぐかのような歌詞はうさぎ!の世界観をもちながらよりリアルな世界と、ファンタジーの世界とをつないでいる。まさにリアルと虚構をつなぐ秀逸なできで、「朗読」スタイルで同じこと言われたらさめさそうなことも表現を変えて歌にするだけでこんなにも違うのにな、というのが正直な感想だったり。

>>小沢健二 魔法的 Gターr ベasス Dラms キーeyズ @ZeppNamba 2016/06/06

ひねくれていてすいません、というかスタンスとして「朗読スタイル」に対してちょっとトラウマを持っているので(w 同じような内容を伝える手段としてポップスを採用してくれているだけで結構素直に伝わるんだよなあ、と思った魔法的ツアーから約1年ちょっとでスタジオ録音盤が手に入ったのは素直にうれしいな、と思う。

曲を聴いた時の感覚、「フクロウ~」についてはだいぶポップに、そしてゴージャスにアレンジされているなと感じた。
それが「セカオワ」さんによったせいかどうか、を僕は判断できない。
だってセカオワそんなに聞いたことないもん。
ただ、魔法的の時と違ってああ、ポップだな、と。魔法的バージョンがソウルだとしたらまさに。

ポップさがこの歌に合っていないかあっているかでいうとあっていると思うし、「いちご」系の生活をきちんとしていくこと、「うさぎ!」的に言うと灰色に打ち勝つよう資本主義世界で生きていくにはこのゴージャスな曲と歌詞世界とがすでに本当/虚構、混沌/秩序といった二律背反の中で矛盾しながら生きていくことを表しているようでよりメッセージが遠くまで届きやすくなっているんだな、と思うわけで。

この歌詞世界は、LIFE前後の東京の(楽しい、そして刹那的な)日常生活―恋人や友人たちとの独身生活の楽しさ(やちょっとした悲しさ)から、ちょっと「大人」になった球体、そのあとのまるで去りゆく季節をいつくしむようないくつかのシングル群、NYに渡った後で明らかに色彩が変わっているわけだけど、Eclecticがちょっと異質なくらい「愛」によっているとしても、「毎日の環境学」のとき以降は(ついに歌詞が消えて、代わりに朗読(環境学のときはナレーション、だけど)自分たちの送っていた日常生活の裏側、外側にあるもう一つの日常を垣間見たなかでどうそれまでの自分たちの生活のQOLをあげていくのか、資本主義に流され過ぎずに都市生活を生き残っていくのかに変化していると感じている。

その中には結婚して家族ができたことも大きくかかわっていると思うし、僕がいわゆる「いちごが染まる」系がまさに該当すると思うけれど、それはこっち(リスナーである僕)も一緒なわけでやっぱり同じだけの時間、日本で、都市で生きていたからこの変化と、かわらないポップな、ソウルフルな楽曲を楽しめるんだと思う。

もちろん?、あの試行錯誤期(毎日の環境学、というかあの映画とか、「東京の街を奏でそこなう」)があるからのこの「復活劇」だし。

なんだかんだ、魔法的の7曲、もうスタジオ録音していない曲のほうが少ない。
「いちごが染まる系」だけのアルバムとか、今までとの並行世界を感じる「時間軸をまげて~流動体について」系でとか、その両方を融合させたまさにいつかもっと混沌と秩序が一緒にある、新世界をもっと見せてほしいよ、と今回のフクロウの声をたぶん何回もリピートしながら思っている。


# by nariyukkiy | 2017-09-06 09:06 | oza

小沢健二 魔法的 Gターr ベasス Dラms キーeyズ @ZeppNamba 2016/06/06

2012年の東京の街を奏でる以来の大規模なツアーは、バンド編成、新曲を携えてという事でのもの。

久々に沈黙を破ったひふみよツアーのドラマチックさや、朗読と曲で細切れになった実験的な(・・・最大限のフォローですよ)東京の街を奏でるとはまた違った構成だったけれど、結果としては色々とあったミッシングリンクを埋めることができたのでは、という内容だったと思う。

1曲目は昨日と今日。
バンド編成だからか、 BPM早め、グルービーにスタート。
いきなりデビューアルバムの1曲目というリスタート感と、モータウンかカートムか、といわんばかりのニューソウルなアレンジでスタートした。
このソウルセッションか、というアレンジは新曲も、過去も曲もうまく今のオザワケンジのモード、を印象づけいた。

そして、気になる新曲は、2曲目から。もともと新曲を携えてのツアーです、とアナウンスしていたわけだけど、前のツアーと違ってスクリーンに歌詞を映し出す演出。
リアルタイムでないこともあったけれどきちんと歌詞と曲をインプットしたい、という演出で、だいぶ親切設計。

2,3曲目に披露した曲は、歌詞は言うなればいちごが染まる系の復活後の系統なのかな。
童話のような、幼きものに話しかけるような、アメリカの絵本のような歌詞とソウルマナーの曲。この子どもたちに話しかけるような、小説を紡ぐかのような歌詞はうさぎ!の世界観をもちながらよりリアルな世界と、ファンタジーの世界とをつないでいる。まさにリアルと虚構をつなぐ秀逸なできで、「朗読」スタイルで同じこと言われたらさめさそうなことも表現を変えて歌にするだけでこんなにも違うのにな、というのが正直な感想だったり。

そのあとのホテルと嵐~大人になれば。
新曲である「涙は透明な血なのか」、をはさんでの一つの魔法。
このセットリストの流れでふと、ツアータイトルにもあった魔法が、以前の曲にも散りばめられていたことに改めて気がついた。
「いま」の小沢健二のモードが、長い沈黙の時間の前とつながっていく感覚を、ひふみよ、や「ヒット曲をたくさんやります」といっていた「東京の街を奏でる」よりもより強く感じられ、「懐かしの曲を、みんなで歌おう」という掛け声にも、どこか素直に乗れる感じだった。

そして、それはちょっと、ドアノックに続いて披露された「流動体について」、というタイトルの新曲。
これがなかなか衝撃的というか、インパクトがあった。

加速するグルーヴを伴っての演奏だったけれど、ふくろうやさめが出てきた今までの新曲とは打って変わって、「東京」が舞台。
ドアノックからの流れが、よりその歌詞を際立たせていた気がする。
「流動体について」のスクリーンに映し出された歌詞は、羽田空港に降り立った主人公の、「平行世界」での人生に思いをはせている。

そう、このツアータイトルをきいたときにまず浮かんだ「ある光」(前のツアーで唯一、この曲をライブで聴けたのだけが印象に残っている)で、JFKを追い、NYCへと旅立った小沢健二が、「東京」に、日本にいたら。
そう言えばひふみよツアーで披露した「時間軸をまげて」と、自分の思想だけからではないない物語を歌うとき、小沢健二は少しだけ時間や視点を曲げる。(それは天使たちのシーンだってそうだ)ボーイズライフの2曲も、そのあとにやった超越者たちも「時間」や「場所」が歌詞に登場し、また詩世界の中で重要な位置を占める。

物語を紡ぐ目線が、昔も今も小沢健二だからこそ、の感覚。


アンコールも含め、7曲の新曲。

そしてライブが終わって何日かたつけれど、ふとしたとき、確かに新曲の断片が頭をよぎる。
心に残っている。

これは、今回のソウルバンドアレンジや歌詞の見せ方を含めた楽曲に集中させる演出の果たす役割も大きいが、何よりも新しい楽曲の強度によるところが大きいと思う。
もうライブでしか新曲を披露しないかも、とか音源出さないかなとかいろいろ思うけれど、今は音の余韻に浸りながら、ポップスターの帰還を喜ぼう。

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# by nariyukkiy | 2016-06-09 22:00 | music

光善寺 カメラオブスキュラ(ホンマタカシ もう一つの電車)

急なカーブは光善寺カーブ、というらしい。
京阪本線が高架を降り、枚方の、大阪の雑然としたローカルな駅は地上にある、ひと昔まえの佇まいの駅。

その下りホームにある、(京阪の人も存在を忘れかけていたらしい)小さな仮眠室がカメラオブスキュラの暗室になっていた。

狭い階段を登り、茶室の入口のようなにじり口を入ると四畳半の暗室があり、窓に据え付けられた穴から入る光。

目が慣れるのにつれて壁一面に、外の風景が浮かび上がってくる。反転して。

最初は空と架線。ぼんやりとしている地上の暗がりを動く自動車が少しはっきりしてきたら、踏切が鳴る音がして電車走ってきた。

キツいカーブだからか、目が慣れたからか電車がカーブを曲がって通過するのが分かる。

自動車のランプ部分が反射して天井に向かっていく。確かに外の風景なのだけれど色も輪郭もぼんやり見えるからか非現実的というか、確かに写実的な映像として網膜に焼き付いていく。

仰向けに寝転がって壁面を見上げると、正の画像として見える。

カンカン、と踏切が聞こえて電車が近づくと振動が背中に伝わる。目の前の壁面に電車が見える。小さな暗室を通して、ぼんやりとした視覚とダイレクトな聴覚と振動とが身体に入ってきて、少しバランスが悪い感じが、逆に心地よくなってくる。

踏切が鳴る。しばらくすると天井を電車が走り、止まる。人が降りたかどうかはくっきりとわからなかったり、あ、人かも、という影が見えたり。振動が遠くなりつかの間の静寂が訪れる。

その繰り返しは、都市の中で、電車が走る日常の風景であり、反転した地上の生活を雲からひっくり返って見ている神さまの気持ちのようでもあり、いつしか時間が経っていることを忘れてしまいそうになる。

外に出ると、普通の、駅と電車が走る風景。
さっきの方がパノラマだったな、とか思ったより自分の視野が狭いことに驚きながら、狭い暗室ー仮眠室を見上げる。
窓に小さな穴が2つ。

その写し出していた、天井の駅。

カメラオブスキュラの体験。
# by nariyukkiy | 2016-02-13 01:01 | sunday people

ホンマタカシ -何かが起こる前夜としての東京

感じたことをそのままにメモしてみる。

”何か”が起こる前夜としての東京。
でも、”何が”?

こう書くと、もうなんかすごく岡崎京子的になる、東京現代美術館で開催されている「Tokyo-見えない都市を見せる」の中のホンマタカシキュレーションパート。

YMOのパートが「東京ガールズブラボー」だとしたら、ホンマタカシの東京は、「リバーズエッジ」後の東京。
(蜷川さんは言うまでもなく、ヘルタースケルターのキッシュですね)

90年代から00年代、展示の中にリバーズエッジの表紙もあったのだけど、「何かが起こる前夜としての東京」の「何か」は、結局何も起こらない、日常の連続としての存在だった。
「何かが起こるかもしれない」けれど、「何も起こらない」のゆがみが東京を作っていた。

ホンマタカシ自身の「東京郊外」は、東京の外郭にどこまでも広がる、均質的な郊外の「どこにでもある」風景を切り取っている。
「東京の子ども」は、そんな郊外を、東京を生きるこどもたち。
岡崎京子の描く、どこか浮世離れしたアンファン・テリブル(ハッピィ・ハウスのるみ子や、ジオラマボーイ/パノラマガールの小学生たちのような)と、「普通に東京に生きる」写真のこどもたちとは、どこかあきらめていて、それでも生きることに貪欲な目の力が宿る。

Chim↑Pomのネズミを追い掛け回す動画は、正直悪趣味だと思うが、都会を生きる「こどもたち」の暇つぶしを表現しているものとしては、「リバーズエッジ」で暴かれた空虚な日常と、平坦な戦場と地続きと考えれば納得がいく表現だ。

だけど90年代の「日常」、岡崎京子が描いた退屈な日常としての東京は、2011年の3月11日をもって一度断絶した、といっても過言ではないと思う。東京の機能が止まったあの日、予期せぬ形で「何か」は起こった。

東京においても、その場にいた人々に3.11は明らかに「何か」を植え付けている。
「3.11」後も、それまでと違う「何か」をまとって日常は続いている。「何か」の一つがホンマタカシの「その森の子ども」である福島の、目に見えない放射能をまとったキノコであり、カメラオブスキュラによる都市そのものが撮った都市の姿ではないだろうか。

反転した六本木の写真は、それまでのスーパーフラットな都市の写真と違って「何か」をまとっているかのような膜がある。それは今も東京の中に、都市を生きる人々の中にうすぼんやりとまとっている漠然とした不安であり、忘れようとしても忘れられない3.11からの今も続いている空気そのもののように感じる。

もうすでに「何か」は起こっている。
でもそれが何かを見極めるにはまだ時間が足りない。


「Tokyo-見えない都市を見せる」が、これまでの東京とこれからの東京をつなげる、つなげようとしていることを思うと、このホンマタカシのパートが一番印象的に感じた。
# by nariyukkiy | 2016-02-08 22:30 | sunday people

My ever changing moods,2016SS

なんとなくスタカンのMy ever changing moodsが聴きたくなる1月末です。

変わり続けるだろう、といいながらなかなか変わらない、変われないっていうことを逆説的に言ってるんじゃないかと思っていますが、その辺は、ソウルセットの「太陽が西から昇れば考えを変えるのだが」というリリックと同じじゃないかなと、どうでしょう?

というわけで、今年も洋服月では春がやってきました。

今年の春はまずはジュンヤワタナベCDGマンさん。
アフリカですよアフリカ。

2008SSにレディスでちょこっとやって、メンズでもシャツを展開しましたが減産でなんとか手に入れた気がしますが、今回はメンズでエスニック爆発。

パッチワークも冴えてきた昨今のジュンヤマンですから、相性抜群ですよね。

というわけで、シャツ&デニム。

シャツといえば、「値段を見たら負けなので気に入ったら『買う』と宣言する」しか買う方策はない(除くお金持ち)のCDGshirtsですが、山柄はコレクションみた次のタイミングで担当さんに連絡をする、というシャツの買い方にそった決定をしておりました。

よくみると山の絵の中に穴が空いていて緑のシャツ着れば草原が、グレーや白なら雪原が広がりそうです。
夢も広がります。

ここはプリュスのタトゥー柄で、お花畑(になるのか?)狙っていきますか。

そんな春夏のスタートです。

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そういえば、BandOfOustidersのシャツシリーズ更新するの忘れてましたね。
# by nariyukkiy | 2016-01-31 11:32 | fashion