ソーシャルな社会での匿名と実名

前回の続きです。
そもそも、この二つのエントリは友人がBlogで、Facsbookの実名主義についての解釈をポストしていたので、TB風味の記事をエントリしようかと。

2011年2月7日(この記事を書き始めた日)、dommuneがデリック・メイのDJを再放送していたので思い出したのですが、彼が同じくdommuneの中で確か雑誌ele-kingの対談の中で、こんな発言をしていました。

われわれは、テクノロジーの始まりの犠牲者だ。(Beginning Victim)

5歳の娘は既にiPhoneとiPadをもっていて、14歳になるころにはそれらに倦んでいて、「ソーシャルであること」が普通になっているだろう。

そうすれば、反社会的なことは考えすらしないかもしれない。

われわれはテクノロジーの被害者である。
テクノロジーがなくなれば、人間は人間でいられる。


そう、まで、少なくとも日本のインターネットは「匿名であること」を前提に構築されてきた世界でした。
いや、インターネット以前にAMラジオの投稿、もっと戻ると俳句なんかだって、2chの「名無しさん」はもちろん、芸名というかラジオネーム、ハンドルネームがあるし、公的に認められた戸籍名以外の名前として「雅号」なんてのもある、匿名性というか世間の自分とはどこか違う「自分」の居場所が、割と重要視されたシステムが認められ、構築されてきたのが日本の社会だと思います。

その中でリアルに会うこともあれば、匿名だけでつながっていることもできる、また認められる「遊び」がある、そんな緩やかな社会の中の「別社会」が日本のインターネットの現在であり、原点であると思います。
(ここまで、前のエントリの繰り返しですね)


翻ってデリック・メイのこの発言ですが、「ソーシャルであること」つまり、社会的に自分が常にオープンであること、それが自分と、リアルでつながっている小さな社会ではなく、それこそ全世界的に「オープンになってしまうこと」がふつうである世界では、「反社会的な」と表現されていますがそれは犯罪とかイリーガルなというより、「誰かに見られない、プライベートな空間」としての「反」社会、がない、そんな世界は本当にいい世界なのか、という問いかけのように感じています。

テクノロジーが作り出した、「プライベートな空間がどこにもない」状態の現出。それがソーシャルメディアの作り出したオープンで、そして窮屈な社会なのではと。




ここで、Facebookの「実名」をあげつらう気はありません。
しかし、その筋の通った「ソーシャルクラブ」の発想は、門戸を閉ざしているからこそ発揮でき、信頼性がおけるのだと思っています。そこで社交的な付き合いをするには、自分の所属、プロフィールをきちんと前面に出して、「おつきあい」するべきであると。
この社会的行動において、リアルの社交クラブよりも敷居が低く、また場所の制約を受けないからこそ新しいつながりを見つけられる、その点においてFacebookは素晴らしいと思いますがその反面門戸を広げた故の「異分子」が存在すること、社交クラブにはそぐわない人物が紛れ込み、悪さをするリスクとどうつきあっていくのでしょうか。

匿名性の強いソーシャルメディアというのは、いうなればおなじ「クラブ」でも夜な夜な誰かが集まり、同じ音楽、空間に酔いしれるほう「クラブ」であるでしょう。
そこでは、そこに集まる人間が(イリーガルな存在でない限り)その空間を愛しているということ以外のつながりは、そんなにどうでもいい。あるイベントで、毎回見かける知った顔、偶然タバコの火を借りたバーの隣の人間に名前を聞くと、きっと名刺交換にはならないでしょう。このDJもなかなかいい、来週のこのイベントは面白そうだ、そんな話と、電話番号とアドレス、ニックネーム。それだけあれば、また「ここ」で会えるという確信。

あえて、匿名での「いい体験」をもとに例を挙げていますが、僕の中で匿名/実名でのネットというのは、このような認識でやっています。

もしかすると、この「ソーシャルな社会」においては匿名/実名というのは意識せず、無意識につながっていく世代が、これから出始めるのかもしれません。(Twitterでは、すでにそういう「こどもたち」が、実名のまま、ネット上に我々と対等な存在として表れてきています)

それがいいことなのか、自然になるのか。もう少し時間が必要でしょうが、僕は今のスタンスで、フラフラやっていければと思います。
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by nariyukkiy | 2011-02-20 19:27 | sunday people


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