映画「おばさんたちが案内する未来の世界」を見る集い

「思い出したことを、いってください」といっていたので。
映画「おばさんたちが案内する未来の世界」を見た、そのときのことを覚書として。
(あとでメールでも送るかも)



<1:映画について>
映画は、長編ドキュメンタリー映画だった。俗に言う「中南米」といわれる世界。数百年前にその独自の歴史と、西洋社会とが交差したときに飲み込まれた文化。組み込まれた人々。

ボリビアと、ベネズエラをエリザベス・コールと小沢健二が旅をし、交流し、音楽に耳をすまし、彼等の日常を記録したこの映画は、日本の日常とはもちろんかけはなれた世界だった。


だけど、ボリビアにはボリビアの、鉱山には鉱山の、ベネズエラにはベネズエラの「日常」がある。

先住民の土地を取り戻した、モラレス大統領。その法律が成立した日に集まった民衆を官邸に招き、「われわれの土地-プエブロ-を取り戻したことを誇らしげに告げる。」

ベネズエラの日曜の午後、テレビは国のどこかで演説をしている大統領、チャベスが5時間のTV番組を持っている。国民はそれを見るともなく見たり、彼がいるところに陳情に行ったり。

錫鉱山、銀鉱山。そこで働く若者は、「いつか咳をして死ぬだろう」という。「死んでも忘れない。プエブロとともに」鉱山の入り口にはそうかいてあり、鉱山の奥には「土の神-ティオ(おじさん)」が祭られている。その先端までカメラはもぐり、リャマの血を注ぎ土地に感謝と畏怖を抱きながら土地の身体を削って生きている人々と大地があることを伝える。

西洋人は、鉱山から金を取り出すのに、化学薬品を使い、水を毒に変えておこなった。そのつけは動物たちに、自然に、そして、人間たちに必ず返ってくる。それをいくら誰かがごまかそうと。

エリザベスの映像は、それらを坦々と刻んでいく。人々の中にもぐりこむ。子供の視線を追う。チャベスを支持するベネズエラの家族を記録する。そこには西洋社会(アメリカ中心社会)に対する疑問や不信感が渦巻いている。そして、同時にその「自然な」日常がそのままの姿であらわれる。

小沢健二は、映像に合わせて楽器を奏で朗読する。それが、(当たり前だが)とてもマッチしていて、映画の主張をいくぶん和らげたり、またあるときは強めたりして、より有るべき自然な形で映画を見る人の前に提示される。

<2:何を思い出したのか>
・小沢健二について。
映画が始まり、楽器を奏で、朗読をする。第1部が終わり、第2部が終わる。
まず、彼について思ったのが「この人は変わっていないんだな」ということ。
フリッパーズが、その文学センスを十二分に発揮した小説だったとすてば、「犬」はそのセンスを、日常に落とし込むことに成功した作品だろう。「俺」(ぼく)が向き合った世界、生活はやがて「キミと僕」とが謳歌する幸せにあふれた日常、LIFEへと発展し、少し旅に出た後、小沢の「日常」はNYへと舞台を移す。「変わった」といわれたEclecticは、ただ舞台が東京や日本からJFKをおりたNYに移っただけだし、「うさぎ!」や今回の映画はNYからはじまった、新しい日常、そして東京やNYとはかけはなれた世界の裏側(文字通り、南米は日本の裏側だ)の「日常」なのだから。

そういう意味で、彼は何も変わっていない。自分の求めているものを、ただ探求している思索者なのだろう、ずっと。

・そして、映画を見て思い出したこと。

①第3部-対話?において、小沢健二(とエリザベス・コール)は明らかに「説明不足」のままそのセッションに入ったと思う。その提示したテーマは抽象的で、事前にどんな映画なのか、果たして今日の趣旨はどこにあるのかの心積もりがないまま(いい意味でも、悪い意味でも)衝撃的なドキュメンタリーを見るのだからもう少しその理解を助ける「何か」があってもいいのではないか。

この映画を見て、そこから発せられる「灰色」がひろがることへの危機感-「灰色」は日本の、僕らの周りを完全に包囲していて、僕らはそこから逃れられない、灰色にだまされているのではないか、自分も「灰色」側の人間なのではないか-から、思わず反省や(特に、僕は自分の職業を真っ向から否定された気分にすらなった)「灰色からどうやったら逃れられるのか?」のヒントや行動の指針を求めてしまうのはある種仕方がないと思う。

だけど、僕は残念ながら「プエブロ」というべき「帰るべき土地」を持たない。祖父母がいる土地は好きだし、今いる東京が嫌いなわけでもないが、じゃあそこが貴方の「地元か」と聞かれたらまだ「違う」といわざるを得ない。
ボリビアの、ベネズエラの先住民たちは「プエブロ」という帰るべき約束の土地を共通認識として、資本主義世界-アメリカを中心とする経済圏-とは別の世界を作り上げようとしている。では、その「アメリカを中心とした経済圏」に取り込まれ、そのことを是としている日本が、同じように「日本」であることを声高に主張したとしても、その声は「ヒステリックなナショナリズム」といわれるのがオチだろう。(事実、日本はその傾向にある)「Back To Nature」的な、もしくはロハス(笑)的な生活が僕らにできるかというと、なかなか難しいだろう。ネットや携帯に依存しないで生きロといわれても、出来ないだろう。

ただ、僕に出来るのは、この「日常」だけが日常ではないと思うこと。その上で、なにが自分にとって正しい道なのかを見極めること。その意識を忘れないようにすること。無意識が一番恐ろしい。無意識的に誰かを、何かをバイアスをかけてみることが「普通」になりすぎている中で、意識を持つこと。
(といってもこれは別にこの映画がなくてもいつも思っていることだが)

そして「自分の正しさ」を誰かに押し付けないこと。それはたとえ「正論」であり、イイコトであっても、だ。

②「失う」こと、「戦う」ということについて
故郷のことを語るとき、なぜか「昔はよかった」的な言動になるのはなぜなのだろう。
自分が前いたところに、スタバが出来、マックが出来、タワレコが出来る。そして、となりまちでも同じことがおきる。

その結果として、自分の「居場所」と誰かの居場所が均質化してしまったとき、あんなにも望んでいたスタバやタワレコやマックを、イトーヨーカドーやショッピングセンターを忌み嫌うのだろう。

確かに、「その土地」にしかないものはその土地、以外の人々にとってはとても価値があるものだ。それは同時に「その土地」を「その土地」たらしめんものだ。だから、たとえどんなに格好悪くても、古臭くてもそれは守るべき大事なものだ、と思う。そのこと自体はとても正しいと思うが、「誰にも知られてない」(その土地にとって当たり前すぎて、大事とは思えない)ものが残っていくのは外部の人々の認知があってこそ。
僕らはアンテナを高くはるべきだ、と思う。そのほうが面白いし、いろんなものがあるほうが、やっぱり楽しい。

だけど、「スタバ」や「ショッピングセンター」が、「均質化」させてしまうものたちすべてが悪者であるかのように語るのも、また間違いだと思う。その土地に住んでいる人々にとって、スタバやショッピングセンターは自分たちと「外の世界」をつなぐものだし、事実、どれだけ批判されようとも地方の「ショッピングセンター」は繁盛しているのだから。そのこと自体を批判することは、都市生活者、もしくは外部の人間に言う権利はない。

じゃあ、誰が言う権利があるのか。それはその土地に住んでいる人々がその便利さや「流行」と引き換えに失ったものに気がついたとき、その土地に住んでいる人にしか言うことは出来ないのだと、僕は思う。
外部の人間が「貴方たちの土地の『つまらない/ふるくさい』ものを捨てるなといっても、それはエゴなのだと、僕は思う。
もし、その土地の人々がスタバやショッピングセンターと引き換えに失ったものを大切に思えるのであれば、そこからが出発点なのだと。

僕にとって、その「語るべき」もしくは「守るべき」美しき故郷などない。
むしろ、僕のとっての心象風景は団地の非常階段から見た東京都心の明かりであり、環八や、小田急線のいつまでも果てないオト。
(もし、目の前に同じようなマンションが建って見えなくなっても、それはこの街の特性だと思うし、いつまでも同じ風景があるほうがおかしい。東京はそんな都市だと思うがそれはまた別の話)

さて、エリザベス・コールはこの対談の中でなんどか「戦う」という言葉を使っていた。

「ミナマタ」の人々は公害の中から、公害の源となった工場や国家と「戦った」
ショッピングセンターが地方に出来るのを阻止するために、大手資本と「戦った」

これらは「灰色」との戦いとして位置づけられているのだろうが、僕は(たとえ、「灰色」といえども
)それは戦うものなのだろうか?と思う。

ミナマタの人々は異常がでてはじめてその事実に気がつき、運動を起こした。ショッピングセンターについては、前に述べたとおり。
僕らは何かと「戦う」のではない。クロシロをつけるものではない。それこそ「灰色」の世界で生きているのだから、そのバランスをあるときは失うことで、あるときはそこにできることで気がつき、修正していくしかないのだと、僕は思っている。

「戦い」は「自分が正義だ」と妄信するからこそ、生まれるのだ。「自分が正義だ」と思うことは、たとえ客観的に「正しい」ことだとしても、何かを否定することは何も生み出さないのだから。

つまり、アメリカがチャベスやモラレスを攻撃するのと、根源は一緒だと言うこと。「正しいこと」としている、主張していると言うことは、押し付けるものになった瞬間、何かと戦うものになった瞬間、それはエゴであり、自己陶酔的なる。(モラレスが先住民の伝統として認めているコカ生産の結果が、コカインとなっているのもまた事実なのだから)

たとえば、捕鯨の問題。原子力再処理の問題。

確かに「無駄に」鯨を捕るのは愚行なのかもしれないが、その伝統もまた、均質化した社会にあって「すばらしい」と認めるべき文化ではないのだろうか?

美しい海に、原子力再処理施設を作る愚行。確かにその通りだけど、じゃあ、生み出された放射性廃棄物はどこにいくべきなのか?僕らはすでに原子力を手にしている。そして、それなしには生活できない場所が、同じ国家の中にある。だからそこから出て行けというべきなのか。できるだけ原子力を使わなくてもいいように気をつけるべきなのか、どこかで「処理」すべきなその物質を、できるだけ無公害化するために努力するべきなのか。押し付け合いや、美しい海を汚すのはもちろん愚行だと思う。しかし、どこかに消えない限り、「ココに建設反対」ではすまないと思うのだ。

スターバックスや、ルイヴィトン、巨大資本のモトで働く人にも、夢や希望はある。スタバが町に広がっていくことを「ココロのそこから」うれしいと思う人もいるはずだ。そんな人にたいして、貴方は「あなたのやっていることは均質化した、つまらない社会を作っていることだ」と伝えることが、はたして正しいことなのだろうか?


③NPOについて、集団心理学(だっけか)いんついて。
実はコレが一番、しっくりきたのだが、小沢健二が言った「NPOとは、革命ややる気を持った人間を、優しく管理し、弱体化するシステムである」ということ。

僕はある施設でボランティアをやっていたとき、そしてそれがいつの間にか魅力的な活動に思えなくなっていったことを思い出した。

上の人は、確かに「人の話を聞く」オープンマインドを信条としていながら、その実、自分の考えから反するものは巧妙に排除し、シンパを増やしていくこと。それで組織が大きくなったり、円滑に動くことに対して、何の疑問も抱かなくなること。
もしくは、いうことを聞かない人を、「何故わからないの/正しいことをしなさい」と指導すること。
自由に見えて、一つの「正解」に人々を拠らせること。

小沢健二が語った「企業型社会・セラピー型社会」とどこまで類似点があるかはわからないけど、「なるほど」と思った経験だった。

(余談だが、だから「自分が正しい」的な行動が目立ったわが小学校の先生たちはどうも尊敬できなかったし、いまも小学校教師を信じようとは思えない(身近にいる「教師」な人の言動からもね)

<まとめ>
じゃあ、何を思ったんよ?
まずは小沢健二は同様のほかの活動ほど「正しいことだけが正しい」と思っていない感じがしたこと。
NYTimesにつばを吐き、チャベスたちが「正しい」ということを自分自身では感じていても、そこまで強くは押し付けず、さあ、どう考える?という投げかけになっている部分が大きいと感じた。(エリザベス・コールのほうがどちらかというと「正しいこと」の主張が強い傾向にあると思った)
まあ、その純粋さがいいのか悪いのかはわからないが、はじめに言ったとおり、オザケンっぽいなあ、と思う。
もっとも、受け取る側は残念ながらそうでもなかった感じがするが(よほど天邪鬼的な発言-ああ、このエントリもそうか-をしてやろうかと思ったが、それでスルーされている人もいた)

ただ、ひとつだけいえるのは、「LIFE」の頃のように、おそらく今と同じことを『資本主義の世界』の中で表現しようとするほうがずっと難しいし、人の心にも響くんじゃあないかな。とも思った。


そして、残念ながらNYTimes的な世界観もまたその世界での「日常」なのだ。ただ、他の日常を排除しているのだが。(その点で、NYTimesを否定する考えもNYTimesとあまり変わらないと、思いませんか?)

結局、僕らは自分の日常、において、自分が正しいと思うことを、正しいと思うがままに生きていくように注意を払っていなければいけないのだ、ということ。繰り返しになるが、それを唯一の正しいことであるとは思わない謙虚さを、同時に持つこと。

まだまだ話せそうだし、まとまってないけど、めちゃくちゃ長いからとりあえず終了します。
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by nariyukkiy | 2007-12-11 02:33 | oza


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