虚構の世界に見る既視感とは

前々から言っている様に、東京の郊外で育った僕にとって「耳をすませば」のOPシーンはまさに"Take me home,CountryRoad"とマッチする最高のシーンだ。
というかあの映画はこのシーンだけでいい。
(さすがに映画のシーン抜き出しは著作権とかいろいろやばそうなのではらない)

そして、先週深夜に突然現れたこのCMのインパクトもけっこう強烈だった。



いわずと知れた大ヒットアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』のCMは、印象的なピアノのメロディと、坂を駆け上がる少女、雑踏のオトだけの非常にシンプルなものだ。
彼女がどこに向かうのか、何で走っているのか、なぜアンニュイな音楽なのか、(もちろん、アニメ中でつかわれる音楽なので見たことある人間はハルヒ?と思うのだが)一切の説明はなく、あとは背景に広がる都会。

彼女の「憂鬱」はmelancholy、すなわち「うつ状態」なわけだがこの映像から伝わってくるそれは、何でもありそうに見えるこの世界が、実は何も持っていないのではないのか、自分と世界との関係は、自分が思っているほど強固ではない、そういった類の憂鬱だ。

ハルヒは同様の独白を本編(憂鬱)の中でもしているが、彼女の憂鬱は「不思議探検」と称して街を歩こうと、一時の恋愛感情に流されて付き合ったとしても拭い去ることができない。
この街には何でもある。遊ぶ場所があり、放課後による喫茶店があり、図書館があり散歩にふさわしい川沿いの散歩道がある。それでも根本的にこの世界は退屈であり憂鬱なのだ。

「耳をすませば」、のオープニングで映し出される多摩川沿いからの東京は、そこにある無数の暮らし、日常生活の中の小さなドラマを予感させたが、ハルヒのCMから伝わってくる憂鬱は同種の郷愁を感じると同時に、日常生活の気がつかないうちに忍び寄ってくる陰を感じる。



たとえば放課後の教室。
同じ京都アニメーションが手がけた「らき☆すた」や「けいおん!」の終わることのない彼女たちのおしゃべりやぶかつ!の陽性、ノーテンキさの反対側に埋めることが出来ない彼女しかいない教室がある。

他愛のない、果てしないおしゃべり、部活の時間、一見充実しているように見える日常生活は、裏返すとただの退屈の塊だ。

でもだからこそこの退屈は美しい。
30秒間の中にはその退屈さと、いつも自分に付きまとっているような既視感を感じ、ついこういう駄文を書いちゃうんだろうなあ。

以上、夜更かししてミステリックサインを見てしまった俺でした。
サッカーと洋服と音楽だけで十分カオスなので、アニメネタは封印しようかな
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by nariyukkiy | 2009-05-30 12:57 | sunday people


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