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マイ・バック・ページ/My Back Pages

映画館について、おそらく前の回が終わったのであろう、奥田民生の「いつもの」声で、明らかに昔の曲調の(そりゃそうだ、ボブディランのカバー曲なのだから)新曲を歌っている声が聞こえてきた。

それは懐古趣味ではなく、奥田民生と、真心ブラザーズの「いま」の音であり、僕が生まれる前の、監督や主役を演じた2人が生まれる前の懐かしいメロディーであると同時に、最新の空気、今の空気をまとっていた。

映画、マイバックページもまたけして懐古主義ではない、今の空気で見れる「昔の」空気の映画だった。

正直、僕は何丁目だかの夕日だとか、リニアに乗ってだかそんなタイトルの「古き良き」日本の映画は見るに値しないと思っているし、あさま山荘や全共闘というのは本や歴史の中の、もしくは両親の昔話の世界のようにしか感じていなかった。

だから、川本三郎氏の自伝的な原作があって、それを妻夫木 聡と松山ケンイチというやたらかっこいい俳優がやるという事前情報だけで見に行ったときの期待度は冒頭のいつもの、奥田民生をきいたときの「ああ、こんな感じか」という以上ではなかった。





しかし、いざ映画が始まってみると、期待感のなさにはすっかり裏切られていた。

「何か」あつかった時代の空気。それにいまいち乗り切れない、どう扱っていいのかわからない、主人公たち。

正しいか正しくないかはおいておいて、「何か」を信じて行動している活動家たちに触発されて、だけど彼らにはなりきれないマツケン、自分の位置から、社会を切り取るジャーナリストになるべく、だけどどこかなりきれない、妻夫木、その焦燥感を中心に話が進むからか、「時代」さえも一つの小道具のようにしかみえてこず、だからこそ映画がとてもよくできていた。

妻夫木演じるジャーナリストの卵の「信じた」革命家は、序盤からどこかあぶなっかしくその馬脚をあらわしながらも、どこか無邪気に彼の革命へとつきすすみ、そしてあっさりと「彼を信じたもの」を裏切る。

そのことで、彼らが信じた「何か」は、そして社会を熱くさせていた「革命」の兆しさえも消えていく、しらけていく敗北であったことを僕らはすでに知っていた。

だけど、いやだからこそその敗北に向かっていく彼らの行動にはどこか共感してしまう。
今自分が抱えている、焦燥感や、「なにか」をしなければと思いながらも何もできない、そんなもどかしさとどこかシンクロして、ラストのシーン(ここは秀逸)の救いでもなんでもないシーンに、少し感動してしまった。

すでに熱の冷めることが、あらかじめわかっている、アンチクライマックスの物語。
とてもいいと思います。
by nariyukkiy | 2011-06-23 00:51 | sunday people


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